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プロフィール(自己紹介)

山内いっとく(旧姓山﨑)

1979年に都城市高崎町で誕生。

沖水小学校・都城泉ヶ丘高校・九州工業大学 卒業

元高校数学教員

奥さん1人、子ども7人の主夫

趣味

  • 旅行:きままな家族旅行

  • カメラ:風景写真の撮影 

  • 釣り:年に1回の子どもとのサビキ釣り

  • 乗らないバイク:大学時代にバイトで買ったドラッグスター

  • スポーツ:見るよりするのが好き(特にサッカー)

会派:進政会

議員連盟
・林業・林産業活性化議員連盟
・防衛議員連盟

・歴史文化研究会
・スポーツ議員連盟

委員会
平成30~31年度 産業経済委員会 副委員長
平成30~31年度 広報広聴委員会

令和2~3年度 総務委員会 委員長
令和2~3年度 議会運営員会
令和4~5年度 文教厚生委員会 副委員長
令和4~5年度 議会改革特別委員会 
副委員長

My Story3 ~政治家への道~

こんにちは。

市議会議員の山内いっとくです。

読んでいただきありがとうございます。

1期目では、都城市議会議員の中では、多くの実績を残すことができた思います。

なぜ政治家になったのか。

夜8時過ぎに公民館に呼ばれました。行ってみると公民館の役員の方々おられ、政治に興味があるか!?と聞かれました。議会議員選挙まで2カ月切っており、今月中に返事をくれと言われました。その日は11月29日、翌日までに返事をしなければならない状況でした。

 

自分は、これまでを振り返りました。

教員として人生の先輩として、生徒たちに、挑戦することの大切を言ってきました。

何かを始めるときには、残りの人生を考えたら今が一番若い、後悔のないようにチャレンジしていきなさいと。

そして、未来を生きる子供たちのために、今を生きる大人が一所懸命がんばらなければならない!!

このことを考えると・・・

自分自身がチャレンジしないでどうする!

今行動しなければ誰がふるさとのことのために行動するのか!!

と思い決意をいたしました。

これからどうする!?

都城には、農地があり、工業団地があり、商業施設があり、流通の拠点や医療の拠点、物産振興の拠点と、多くの産業があり、これらをうまく融合したまちづくりをしていかなければなりません。10年後20年後も見据え、それを行うことができるのは、誰でしょうか。働く世代は、地域で活動するだけでなく、親の介護があったり、子育てがあったりと忙しい世代でもあります。しかし働く世代だからこそ、全ての世代を視点に入れることができます。地域、福祉、教育の3点の視点で沖水から都城を発展させていきたい。子どもたちや若者たちが将来、帰ってくることができる居場所づくり、帰ってきたくなるまちづくりを行っていきたい。

そのためには、是非とも皆さんの力を貸していただけないでしょうか。

どうぞよろしくお願いいたします。

学歴

  •  平成10年 都城泉ヶ丘高等学校卒業

  •  平成14年 九州工業大学情報工学部卒業

  •  平成16年 九州工業大学大学院修了

 

 

職歴

  • ​ 平成15年 筑紫中央高校・直方高校非常勤

  •  平成16~20年度 宮崎大宮高校勤務

  •  平成21~23年度 福島高校勤務

  •  平成24~26年度 都城泉ヶ丘高校勤務

  •  平成27~29年度 宮崎工業高校勤務  

  •  平成30年~ 都城市議会議員1期目

  •  令和4年~ 都城市議会議員2期目

活動歴

  •  平成24年度~ 東高木壮年会所属

  •  平成25~27年度 沖水小学校PTA会長

     PTA行事の見直しを実施

  •  平成25~28年度 ”住みよいまち沖水”協議会

   地域づくり部会 部会長 

     沖水文化マップの作成

     沖水防災マップの作成

     沖水地区大運動会ポスターの作成

     沖水地区フォトコンテストの実施

     沖水カレンダーの作成

  •  平成25年度~ 沖水地区青少年連絡育成協議会役員

  •  平成25・29・30年度 おきみず祭り実行委員長

     15周年おきみず祭り、20周年おきみず祭りの開催

  •  平成29年度~ 県警少年補導員

  •  平成29年度~ 都城市少年補導委員

  • ​ 平成30~令和2年度 都城泉ヶ丘高校付属中学校PTA副会長

  •  令和元年度~ 保護司

  •  令和2年度~ 沖水地区壮年連協役員

My Story2 ~教員への道~

こんにちは。

山内いっとくです。

教員のことを簡潔にまとめました。

エピソード1 なぜ教員を目指したのか。

教職員に初めて興味を持ったのは、小学校6年生のときでした。

その時の担任の先生が厳しかったのですが、これまでの学校の当たり前を変えてくれました。

例えば、給食ですが、どんなイメージを持っているでしょうか?

教室の中で机をグループにしての食事。コロナ禍においては、前を向いての黙食。

当時私のクラスだけ、晴れた日は、校庭にブルーシートをひいて、みんなで輪になっての食事でした。

子どもにとって、学校生活が半分は占めていますが、その学校生活を先生が変えてくれました。

これに深く感銘を受けました。

それから、中学・高校・大学と夢は色々変化しましたが、教職員への道は常に第2希望にいれていました。

大学・大学院での研究は、人工知能を活用した学習支援システムの研究でした。

就職を考えたときに、SEになってシステムの開発に携わることもよかったのですが、システムは数年で変わる。

それよりも、学校で子どもたちに関わった方が、人づくりに直接関わった方がよいのではないかと考えました。

しかし、時代は就職氷河期。自分のまわりは、大学のブランド力で大手企業に就職していました。

世間では、一般企業での就職が厳しいため、公務員や教員に集まり高倍率で、非常に厳しいものとなりました。

エピソード2 2005年4月~2010年3月 宮崎大宮高校​での取組

 #教科:数学・情報

 #公務分掌:教務部・環境保健部・図書部

 #部活動:パソコン同好会・女子サッカー・柔道部・男子バレー部

宮崎大宮高校は、宮崎県トップクラスの進学校で自信を持っている生徒が数多くいます。

「夢=挑戦」このスローガンがとても印象的でした。

教員の指導力も高い先生が多く、数学の授業では、生徒たちに試されることもありました。

朝課外から、放課後の個別指導まであり、朝6時に家を出て夜10時に帰る日々が続きました。

ここでの数学の経験が、役に立ち、どの高校に行ってもやっていける自信がつきました。

ベテラン教員のクラスの平均点より良かったときは、達成感もありました。

教え子の中には、京都大学進学者も複数いてうれしく思いました。

しかし、今では当たり前のパソコンを活用した数学の授業は受け容れてもらえませんでした。

情報の授業では、県内の普通科高校でもっとも、表計算力、レポート力、プレゼン力を生徒に着けさせることができたと考えてます。

社会人になった生徒から、先生の授業が一番ためになったと言われたときはうれしかったです。

また、文科情報科の学校設定科目を融合し、探求活動(現在では県内のほとんどの学校で実施)を提案し、総合的な学習を実施しました。

公務分掌は、教務部を中心に、時間割の作成や日課連絡票の作成、成績処理、入試事務局を担いました。

業務の効率化を目指し、引継ぎ資料の作成やデジタル化に取組みました。

当時はまだ手書きでの作業が多かったため、デジタル化に関して反発もありました。

また、120周年事業のために、図書部を兼務で、映像資料の作成を行いました。

部活動では、サッカー部を希望しましたが、若手は転々とさせられました。

パソコン同好会の顧問の時は、ノートパソコン3台を自腹で購入し、生徒に貸し与えました。

女子サッカーの話は、苦い思い出です。

生徒から要望があり、生徒指導部に働きかけますが、立ち上げが難しい。

そこで、とりあえず、練習を始めますが、運動苦手な生徒も多く、レクリエーションのようで、1年で自然消滅してしまいました。

柔道部では副顧問でしたので、生徒と一緒に取組み、足の親指を骨折するということもありました。

動ける若手ということで男子バレー部の顧問をすることになりました。

初めてのバレーで生徒の方が詳しい。

まずは、生徒と話し合いをしました。

部活動の状況はもちろんのこと、高校総体に対する想いを本心を語ってもらいました。

試合に勝ちに行くのか、それとも思い出づくりに行くのか。

3年生の中には、泣き出した生徒もいました。

1回目の総体は、悔いなく出し切ることができました。

新チームになると、幽霊部員の2年生を参加させることから始まりました。

新キャプテンは3年生とともに部活をやめるつもりでいたようでしたが、なんとか残ってもらいました。

バレーの指導法は外部コーチに手伝っていただいたり、他校の指導者の話を聞き学びました。

2年目には、良いチームになってきました。

正月のOB会も作りました。

1年生大会初戦敗退のチームでしたが、県内ベスト8のチームとの試合でも互角に戦え、組合せ次第では、ベスト8に入るチームとなりました。

後はメンタルです。

エースの子は、お調子者の感じがあったので、場合によっては、チームの雰囲気がふざけた感じになってしまいます。

キャプテンと話をして、空気が変な方向へいきそうなときは、厳しくするし、場合によっては、エースを外すこともある。またはやめてもらうこともあると。

ある日、真剣に望むべき時に、ふざける場面があったので、エースの子に部活をやめろと話しました。

すると、逆にその生徒から先生がやめてくださいとありました。

その後すぐに転勤になったのですが、その生徒から電話で、先生がいなくなり自分の心の弱さがわかりました。

ありがとうございましたと言われたときは、うれしく思いました。

そのチームは最後の総体で、ベスト8をかけてフルセットの末、デュースが続き、惜敗となりました。

離任式では、クラスの生徒たちが大きな声で見送ってくれたことが印象的でした。

エピソード3 2010年4月~2013年3月 福島高校での取組

 #教科:情報・数学

 #公務分掌:教務部・生徒指導部

 #部活動:女子バレー部・レスリング部

福島高校は、地域に根ざした普通科高校で、定員割れしており、悩みを抱える生徒も数多くいました。

しかし、推薦で大学行く生徒だけでなく、プロ野球選手になる生徒、宝塚に行く生徒など​個性あふれる生徒も多くいました。

授業は、手取り足取り教えていく感じです。

高校入試の数学のテストで1桁だった子が、放課後指導等で1年後には模試で偏差値60以上になったときにはやりがいがありました。

公務分掌では、入試事務局とともに、生徒指導を中心に行いました。

宿泊研修で喫煙問題があったり、体育祭の練習時に生徒がいなくなったり、授業中に席についていることができない生徒がいたりと、日々がトラブルでした。

生徒会で、東日本大震災の被災者のための募金活動をすることになりましたが、その方法が好調先生の考えで1ヶ所で店舗前で大勢で実施することになりました。

店舗の迷惑になるため、校長先生に変更を要望しにいきましたが、譲られませんでした。

その結果、店舗からクレームがきて、責任者として謝罪をしに行くことになったのですが、当の校長先生は責任を押し付け知らないふりでした。

また、生徒が陸上部を作りたいと相談にきました。

前任校でもでしたが、新しい部活をつくることには、ハードルがあります。

​なんとか方法を見出し、公式戦に出ることができるようになったのですが、県で優勝をすると学校の対応が正反対になりました。これに対しては生徒も不信感を抱いたようです。

ある生徒の進退に関して、職員会議がありました。

本気でその生徒のためにどうするか発言した教員は、転勤させられました。

管理職の考えは、世間体をどうするかに尽きていたようです。

部活動では、女子バレーを持たされましたが、専門家の後の顧問ややはりきついものがありました。

生徒、保護者の希望で20チームほどで実施する地元での合宿を年間5回ほど企画しましたが、信頼はされておられず、苦痛でした。今、部活動の在り方が話題になっていますが、このような環境であれば、存続が厳しいと感じました。

2年目からは、レスリング部の副顧問になりました。

役割としては、顧問と生徒・保護者の間に入り、各種連絡調整を行いました。

生徒と一緒に練習に取組み、保護者とはお酒を酌み交わし、顧問と共に優勝を目指しました。

部員の家庭を訪問し、課題解決にあたったこともありました。

足首を骨折することもありましたが、ストレスから多少開放され、20㎏減量しました。

新人大会では九州大会に行き、高校総体でも3位という結果でした。

離任式では、飯塚の山笠のように拳を上に挙げて「オー」という掛け声で見送ってもらいました。

エピソード4 2013年4月~2016年3月 都城泉ヶ丘高校での取組

 #教科:情報・数学

 #公務分掌:教務部

 #部活動:男子テニス部

都城泉ヶ丘高校は、都城市の進学校です。自分の母校ですが、良くも悪くも適当(適切)です。

数学の授業では、いち早くアクティブラーニングを取り入れて、文系のクラスでは好評でした。

公式集や別解集の作成をはじめ、各分野の最大最小の問題だけを集めたり、作問したりと多くの教材研究をしました。

公務分掌は、教務部で、主任の右腕の次ぐらいの立ち位置で、効率化を行いました。

入試事務や時間割作成は、もちろんですが、ホームページのリニューアルをしたり、日課連絡の効率化など取組ました。

部活動は、男子硬式テニス部を持つことになります。

テニスも初めてでしたが、知らない部活動をもつことは、経験があったためその経験を活かすことができました。

どのような部活にするのかの話し合いや、指導法の研究を行いました。

1年目の総体は2回戦敗退。

2年目の総体は3回戦敗退(ベスト8)

3年目の総体は決勝リーグまで残りベスト4。

新人大会も3位で九州大会も参加しました。

ここまで行く過程では、モチベーションの低い生徒とのやり取りや、勝ちたい生徒との本音でのぶつかり合いがあったりと、ドラマがいくつもあったところです。

技術は教えられませんが、基礎と戦術の指導、フィジカルやメンタルの指導を行いました。

このとき、チャンスの女神の話やチャレンジすることなどを多く語りました。

保護者会もつくり、4年目の総体を楽しみにしていたのですが、転勤となりました。

最後のチームもベスト4となり嬉しさと残念さが残りました。

離任式では、簡潔に挨拶をしたのですが、クラスの黒板に素晴らしいメッセージをいただき、今でもうれしく思います。

エピソード5 2016年4月~2018年12月 宮崎工業高校での取組

 #教科:数学

 #公務分掌:教務部

 #部活動:ハンドボール部・サッカー部

宮崎工業高校は、県内1の工業高校で、学力は普通科高校と変わらない生徒もおります。

素直な生徒が多く、部活動の盛んな学校です。

ハンドボール部では、副顧問として、専門の先生が抜けたことによる生徒の心のケアを務めました。

惜しくも準々決勝で負け、ベスト8で終わりました。

最後にサッカー部副顧問になりました。

高校総体では、指導者として、3競技目のベスト4も経験させてもらいました。

監督の先生が1年生や、セカンドチームの指揮を任せてくださり、非常によい経験をしました。

自分としては、みんなを出したい、監督としては、勝ちにこだわれ!

3部リーグ優勝を目指しましたが、結果は2年連続3位。

一年生大会ではベスト8でした。

監督のすごさを感じたのは、選手起用の仕方で、これまでDFだった生徒をFWで起用したり、

メンバーに合わせて、3-4-3のフォーメーションにしたりと、影響を受けました。

そのため、戦術に関して、任せてくださり、挑戦させていただいたことは感謝しています。

チーム一丸となって臨んだ各種合宿や大会は部活動指導生活の中でも充実したものでした。

指導者資格も取得して、のぞんでいきたいと考えていましたが、突然学校を去ることになりました。

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